昭和42年11月24日 朝の御理解
昨日は、東町教会のご大祭でございましたから、本当にみんなおかげを頂きました。秋永先生、それから総代から高芝さんと、それに、むつやの車で送ってくれましたから、茂さんと信司さんと、一緒におかげを頂きましたんですが。
それだったからでしょうか、 私今朝がた、やはり、あの、東町の教会におかげを頂いておるお夢を頂いた。そのお夢の中に、もっと広い、たくさんお参りがあっております情景でございましたが、突然東町の先生が、「大坪先生、あの、お説教をお願いしますと」仰せられる。もう私はビックリしまして、ところが、その、ビックリしていながら、私は教衣をもっていっている、説教の時に付けます黒、真っ黒い。そうですかと、というて私は、そのま、遠慮もせずに受けてお説教をしておるというお夢でございます。
しかも、全然、その、考えてみますと、なんというんでしょうかね、久留米地区の先生方の、まあ、銘々伝といったような感じのお説教をさせていただいてるんですね。 まあ、それが、どうしてこげんな言葉で称えられるだろうかと、どうしてこの先生、信心の、そのままずばりに発表が出てくるかというぐらいにお話がでけておるんですね、それがですよ、私は、実際は、もう、何を話したか全然覚えませんけれども、お夢の中ではそうでした。ね、もう、本当にどうしてこういう例え言葉があるであろうかと、どうして、先生、その、信心をそのものずばりに、こう、表現しながらも、それをあの、発表でき、それをみんなひっくるめてですね、親の心が分からなければ親孝行が出来ぬ、神様の思いが分からなければ本当の信心は出来ぬというような講題の元にでですね、その、先生方の信心を私、知っておる限りと言うよりも私知らん ところもでしょうね、なんともいえん、その、お説教でしたですよね、だいだい、みなさんもご承知説教ということになりますと、先生方みんな裏に引っ込んでで二階に上がられて、ま、東町は二階が客殿ですから二階に上がってしまわれておる。ところが先生方がパーッと私の話を聞いてやってくださるんですよね、私のお話を聞いてから一々こう顔を見合わせられたり、ニコニコされたり・・?悪いな、先生方にはちっと難しいあんなさろうと・・・?印象的でした。そしてその先生方のお話を頂いておるお夢でございましたがね。
初めに、私は善導寺の信者である、今の親先生の、いわゆる、私の信心の師匠である、ご夫妻の事を話したようでございました、けどなんと言うて話したか覚えません、けれども、私は今、今ここで、なら、それをお話をせろといわれるなら、私はどういうふうに話をするだろうか、そんな気持ちでみんなに聞いてもらいたい。
夢の中の話は違いました、たしかに、あの、善導寺の親先生があんなにおやさしいように、それこそお地蔵さんのようにしておられますけれども、実に厳しい、私には厳しかったですね、けれども、その親奥様も、もう本当になんと言うんでしょうかね、もう私は思いましたですがね、もうどこの教会先生、どこの教会の奥様よりもこがしこ出来た方たちはあるまいと思いました。これは本当に思いました。
もうどこいっても見ても、聞いても、内の親先生のような、内の親奥様のような方はおられない、もう親先生から厳しゅう、やかましゅういわれてから、まあ、いうなら私がしぶしぶと帰っておる時なんかは、裏の方から、親奥様からこうやって手招きしてから、( ? )、その行ってみると、これはお下がりですよちいってから風呂敷にお野菜が包んである。 帰って開けてみると中には、お野菜だけじゃないお米も入れてある、ある時なんかは何百円かお金が白紙に包んでいれてある。福岡におる時分ですから、ここへ持って帰ってから奥さんにそういう親切と言うか、神心に夫婦の者が感泣して、これだけでも親先生奥さんの御恩どん忘れちゃならんぞとい、うて今でもそれは申します、家内が、そういうことがございましたですよね。そういうま、お話 ま、向こうの方から言うと杉本先生ですよね、今はそうじゃございませんけれど、あの当時は非常に大坪さん、大坪さんと言うのは、人気があったんですね、だからもうあっちこっちの教会から、いうならばもらいがかかる。電話が掛かって来るですね、大坪さんを一晩話にやってくれといったようなことでした。で参ります、ある時、私、西久留米にお参りさせて頂いたんですけれど、皆さん方たくさんと言うても20名ほど集まってもう夜どおし杉本先生の神徳話を聞かせてもらいました。
当時、私が驚きましたことはですね、もう甘な、辛なに全然不自由しておられなかったということですね。その日はぜんざいばして下さった、そして、私と差し向かいで御神酒をずうっと頂きながら、先生もその時分ずい分お上りになったですね。それでも信者がもう四、五人それを振り回して、私とその杉本先生の話を聞かれておられる、ところが私が驚きますことはですね、私にはぜんざいを進められて、私にはお神酒を進められるけれども、もう信者が、幹部がおりますけれども、一杯どうですかとさされない、もうこれには私は驚きましたですね、そういう育て方なんですね、それでもかなりぜんざいなんかは沢山してあるから余るだろうと、お孫さんと二人暮らしでした当時。まだ、このぐらいのお孫さんでした、とお二人ぐらいですから、誰がそれを頂くですかね、けれども、そのぐらいに信者に対して厳しい態度を取っておられますね。時に私にちょうど、もうお話も済んで、まあ、ちょっと休ませてもらいましょうと、と言うて、もう休む時間もなかったけれども、休ませてもらおうといいよる時に、丁度婦人会の婦人部の方が、あちらでは婦人部の方達が、毎朝、朝、あの、お勝手の御用に二人づつぐらい、お掃除の御用をしておる婦人会の方達が出てきてまいります。先生があんなふうでございますからね。
その、婦人部の方はですね、親先生、あの、もう洗濯石鹸がございません、もうその時分に洗濯でっちゃなんか、まずなかったです。もうこのあたりでも水石鹸がだけであってですね、硬い石鹸なんかもう闇で非常に高い物でもあるし、ございませんでした。当時、そういうように、あの、お届けをしておられますよね、あーその、そんなら、神様にお願いしとこうと、言うておられますもん、ね、そしたら、あの、あくる日になりました、だから大変しばらくお話をさせて頂いてから、もう昼頃までおかげを頂いておりました。そしたら、あの、大分から小包が届いた、開けてみたら、なんと洗濯石鹸です。はぁー私は素晴らしいなー、勿論その当時の甘な、からなが集まるというだけでも素晴らしい、ね、けれども、親先生は、洗濯石鹸がなくなりました。あーそうの、神様にお願いしとこう、明くる朝、もう大分からですね、洗濯石鹸が小包でついたことが、私は驚いてしまう、お徳ちゃたいしたもんだなと思うた事がございます。ね。
それから、あの、( ? )みえておられる、ここはあの私と大変な関係がありましてですね、私があちらの嫁さんをお世話することになったんです、私がお話にいつもいっとるもんですから、( ? )ですね、おばあさんと二人ぐらいでした、おばあさんというても53でしたけれども、そこで私がここの西条から・・・?、ここに石浦にもってきてますね、ここには参ってきます、あの人はと私は見せました、まあ、大変気に入ってひでこさんも行こうというもんですから、それで、私こんど御本部参拝から帰ってきたら、お茶を入れる事に、話を決めて私は親先生とお供して御本部参拝しまうです。ね。
ところがです、丁度、久大線に乗り換えなければなりませんので鳥栖の待ち合わせでまっちょります時に、ふらっとしたんですよね、そしたら、私があの、そのふらっとしとる間にお夢を頂いてるんです、それが、あの、私がタコ上げをやってるんですよね、そのタコがです、手元からプツッと切れて飛んで行ったお夢を頂いたんです、その頃私は御神夢をしげしげ頂きよる訳でもないしですね、はぁーなんと言う、どうした意味じゃろうかと、親先生に私が、今、先生お夢を頂きましたっち、それは知らん御神夢だよちいうて親先生仰いました、そして、親教会ににお礼出てから帰らせて頂くのと千代田・・?、・?さんのお父さんが私の方に、それこそ、もう恐縮してからやってきたのは一緒でした、これは大坪さんもう大変な事が出来たっち、どうしたかっち、それが、あんたもうあんたとあげんして( ? )所がです、夕べその、盗まれたっていう訳なんです、あの辺では盗まれるという訳ですね、実際にはそうじゃなかったらしいですけれども、その、まあ千代田さんが私に断りの口実に、まあそう言うて来たらしいんですよ、ね、そん時に私がですね、思った事は、その鳥栖のお夢でした、はぁーこれは、そん時は分からんけれども、その千代田さんの話を聞いてですね、普通で言うなら、もう私の立場は全然ないですよ。そりゃ千代田さん、なんてこつ言うの、そげんなんこつがあるもんの、とこう言わなければならんのですけれども、そこを朝前にお知らせを頂いとりましたから、これはもう、切れる事の方がおかげだと思ったんです、もう手はつかれんと思った、手元から切れてるんですから、それで私はすぐその足で( ? )参りましてから、向こうではもう総代がご本部から帰りましたら帰ったらすぐ行くことになっておりましたから皆が集まってるんですよ、それで、まあその時分の私に非常に信用があった時ですから、まあ、とにかく皆さん私の話を聞いてくれというてその顛末を話させて頂いたところが、他の総代さんどんが、皆さんたちが、しんいちんなんかはもうそんなこつがあるもんか、もう一度ちゃんとあげんして、言うなら準備までしておった。そしたらその足立先生がですね、そりゃもう皆さん、そういうたっちゃ同じことですよ、と。いうならば大坪さんが言われるように、確かにもう手元から切れてるんだから、切れてるものをおうてもしかたがないから、これは、いうてもならん、腹をたてもならん、それはこれはご縁がないのとあきらめるというようなことでした。あの時分のことを思いますと、私もそのことにすっきりしてましたがですね、足立先生はだいたい非常になんというんですか、人間が弱うなさりますから、非常に腹をたてなさる性分があるですよ、昨日もなんか、東町の教会でですね、総代がいろいろと ? 腹かいてから、帰んなさったそうです、私は・・・・?まあ、ちょいっとしたことでプリッと腹かきなさる所があるです、ね、ですから、先日からもお話をしたように、・・・ ?一番初めに大分に、で御神縁を頂かれた時に、一番始めに頂かれたその御理解が「足立さん腹を立ててはおかげにならん、不足をいうちゃあんたの病気はようならんよ」というのが一番の御理解だそうです、だから、もうそれこそ、その当時は死ぬる思いでその事に取り組んだといわれる、これは私は、もう本当に大真理だと思うんですね、おかげを受けるという事においては、私共がですね、腹を立てない、不足を言わない、もう絶対おかげを受けよりますよ、ね、それに取り組んで、あのさしもの病気もおかげを受けたと言う足立先生のお話を2,3日前させて頂きましたがね、そういうようなその、腹を立てんと言うことを修行にしておられる、実を言うたら、昨日も申しますように、うかつにしておるとの、信者の言うたことにも腹を立てて、昨日は席をけって、立たれたと言うんですからね、そういう方がいよいよの時にはしっかり、いよいよの時には腹を立ててはならんという治まったものをその当時にきたえられた所をですね。
宮ノ陣の教会の今の親先生、こんな話を頂いたことがったのですが、こう言う信心がこの先生の命だと私は思ったんですけどね、ある時に信者が、それこそ、慌しく参ったんです、ね、鼻の中にですね、なんか止め札なんかを入れたらしいんですよ、それがどうしてもでらん訳です、それで、親先生どうしましょうかち言うてから、その参った時に、一番始めにその先生が仰った事がですね、「入ったものがでらんもんがあるもんのう」と仰ったそうです、それで信者が腹が決まったんです、先生が病院へ行けち、すぐに行こうというつもりでお届けにきたんです、ね、慌ててふためいて参った時にですね、あの先生がいわっしゃったことが「入ったもんがでらんもんがあるもんか」って怒られたということです。
そういう一つ、非常に信念が強い女の先生ですけれどもですね、大変な修行をなさって、現在はあーいう立派なお広前をもっておられる先生にはなかなかどうして一筋縄ではいかん先生ですね。そういう信心が宮ノ陣の、まあ、命のようなもんですと私は思うんです、ね、まだあの先生ごとについてはいろいろ知っとることがありますけれども、まあ、時間がないからお話はしませんけれども、とにかく非常に信念の強い先生です。
次に今度は旗崎の私久留米で酒屋の番頭をしておる時代に、ちょうどご夫婦で初代石橋先生について信心の修行があっておりました、それは皆さんもご承知のよような感じでしたですね、もう道端の小さいお広前でですね、( ? )修行されました。 久留米の修行中の時分、長田先生、いわゆる、ご主人の先生はもうっぱら御神前のご奉仕でした、の稽古でしたですね、そすと奥さん、今の教会長であるところの安部先生は長田先生はもう、それこそ、女中さんのようにして、勝手の方の御用を頂いておられました。
その先生のお話を私、ある時に、話というほどしでもないけれども、まあ、断片的に話しておられるのを聞かせて頂いて、はぁー、なるほどなあと思ったんですよね、というのは、その、もう先生は、いわゆるご主人、先生は一生懸命御神前の御用をなさっておられるから、私はもう一生懸命勝手の御用をさせてもらうと言う事も、何をいつも焦点においたかというとですね、朝から三度三度親先生が召し上げる所のですね、召し上がる物、それはもうつけもの一切れのうえからですね、もうおつゆ一つ作るところからね、どういうような切り方をしたら親先生が喜ばれるじゃろうかち、どういう味をつけたら、親先生が喜ぶじゃろうか、もうその事ばーかっり考え続けておりましたち、いうことを私は聞いた事があります、素晴らしいですね、金光様の御信心は必ずしも御神前のほうへおる事がおかげじゃないです、必ずしも、もうどこんにでもおかげを頂けれる場はあるという、それぞれの持ち場立場において、そしてみてごらんなさいませ、その親先生であるご主人である先生が亡くなられるとも、もう同時でしたですよ、旗崎があーいう、その火の出の勢いで御比礼立ちがしたもの、おそらく、今の久留米地区では一番の御比礼の頂き頭でしょうね、女の先生か弱い、そういう見えれるけれども、なかなか芯が強い先生、ね、それがです、いかに親先生がお召し上がる物をですよね、もう、その、漬物の切り方一つにでも心をつこうたっち、ね、どういう味をつけたら、あー親先生が今日とは美味しいかというて喜んで下さるじゃろうという事だけを一生懸命思い続けて私は御用をさせて頂いたということをですね、聞かせて頂いたことがある、そういう先生なんです、ですから、信心をさせて頂いてですね、こういう総代なら、総代にならなければ信心はでけんとか、幹部じゃなかなければとか、ね、もうそれこそ、誰も知らん勝手の御用を頂いときゃ、頂きよるとは馬鹿らしいと言う事もなーんにもないです、まあ、いうなら、ここでは広子(ひろこ?)先生達が御神前いっぱた、私は御用させます、そすと、公子さんなんかはもういっぱた勝手のほうです、同じ修行をさせもらいよるのですけれども、私はそんなもんじゃなかろうかと思うんです、どこおったって同じ事なんです、真心いっぱいの御用さえできりゃおかげが受けられるということ、お徳とが受けられるということ、長田先生の例が一番よか、ね、これは、もう、私の青年時代です、北野の教会の先生は昔の旧制中学を出られるとその年に本部へいかれたんです。ある事情のため、ある事情とは北野の教会が親先生達ご夫妻があちらへいかれたんですね、北野の教会に、で善導寺を親先生が守られる、けれども、どうでも北野の、だから、親先生御夫妻が善導寺に帰ってもらわにゃならん、どうでも北野も誰か立てていかなきゃならんというので、その、始めは行徳先生、ね、今鹿児島へ行っておられる、それで、行徳先生はあちらへ御用をしにおいでられることになったもんですから、どうでも、その、中学卒業したばっかりの、今のしげはる先生を御本部へなりなさった訳でございます、ですから、まだ10代でしたでしょう、教師の資格をもって入られたのは、そういうある日、私が夜の御祈念にお参りさせて頂いたんです、そしたら、今日は北野の先生の御祈念げな、北野の先生が御理解なさるげな、あの時分の晩の御祈念でもお参りが多いございましたからね、その時の話を私はまだはっきり覚えてるんです、私は昨日、御神夢というのでしょうか、御神夢を頂いたといわれるんですね、そして、本当にもう、本当に見事にやっぱお話になりましたですね、それが非常に印象的でした、というのがですね、丁度私がその、船に乗りたいと思うて、海岸やってきたところが一槽の小船がある、そこの小船で向こうの岸に、その、いかねばならんけれども、それこそ、洋々たる、その、海原でですね、ほらこげんなん海をこげんな船で行かれるじゃろうかと思ったけれども、その船に乗ってそこを、その、出たという所である、帆もありゃ、櫓もある、いろいろな、その・・・。
たとえばそういういわば松茸のお供えいただいたばってん、これ食べさせるとは勿体なかと、と食べてよかったんだけど私はあの焼き松茸で・・・・・?もうおそらく終生これを忘れることは出来まいと思うけれど、確かに人を軽う見な、軽う見たらおかげはなしと仰る。
だからそうそういうしんじんいうがむしゃらなような感じの先生ですけれども、そういう一面がおありになったということですね。
そういう私は今日久留米の地区の先生方がですね、とやこうなんとかかんとか言いながらもです、やっぱりそれでも私は昨日行ってびっくりしましたことは、立派な納骨堂が出来ております。
そしてあれだけの境内にですね、あれだけの教会が建っておるんですから、何ひとつ不自由のない立派な教会です。どうやこうや言うてもほんとにその道一筋にです、打ち込んで行きゃおかげは受けられる。
久留米教会に一人でも落伍者ができたと、どこももないです。
どこの教会とても隆々とまでは行かんでも立派なやはり教会としての御用が出来ておられるという事なんです。
それにはもちろんそこの先生の個性があり、生き方がありますけれども煎じ詰めて申しますとです、やはり親の心が分かって、親の心に沿うていかれた。神様の思いが分かって、神様の思いに沿うていこうと努めておられげんる そういう信心の姿がです、現在の久留米地区の先生方のおかげを受けておられる姿じゃなかろうかと思うのです。
今朝私お夢の中に東町教会で私お説教させて頂いておる、そのお説教の中にもうそのときお話をしておるそれを信者はもちろんですけれど、横に並んで聞いておられるこんだ自分の話じゃろう、こんだ自分の話じゃろうと期待して聞いておってくださる。ね、そして良いか悪いかしながら聞いておられる、印象的なお夢でしたけれどもね。ま。ひよっとすりゃ私がこういう風に心の底からこの先生のここんところを知っておる、この話を頂いたことがあるということをおそらくやっぱ只今皆さんに聞いてもらったおなおはなしにですね、肉をつけたり味をつけたりしてお話したんじゃなかろうかと思うんです。どうぞ。